今回は、技術的な内容ではありません。ただ大切なことだと思います。日常の忙しい生活の中では、私たちがどうしても忘れがちになったり、避けて通ってとおる「なぜ?」についてです。理由もわからずに何気なくしていることの意味を本当に考えるキッカケをつくってくれる内容です。是非、読んでみてください。そして、「なぜ」と色んなことを頭の中で考えてみてください。きっと、物事を深くかんがえるようになります。

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なぜ?

うちの2歳の娘は「なぜなぜ期」真っ只中だ。それでも、あまり心配はしていない。5歳の子が同じ時期を迎えた時に随分練習させられたし、試行錯誤の末、乗り切るのに一番いい方法を見つけているからだ。

その方法というのが、これだ。未就学児に「どうして?」と聞くのをやめさせる唯一の方法は、これ以上聞けないほど「どうして?」と尋ねつくさせることなのだ。

何か質問されたら、答えること。いらいらしたり、ため息をついて、「だから、それはね」と言うのもなしだ。そういった衝動は抑えて、聞かれるがままに答えるのがいい。必要ならWikipediaを使ってもいい。降参したり、諦めてはいけない。「どうして?」という質問すべてに熱意を持って答えれば、最終的に子供は飽きて、別の話題かゲームを始めるだろう。これは絶対に失敗しない方法だ。

いや、ほぼ絶対に失敗しない方法だと言っておこう。最近、うちの2歳児と、この十分に確立された方法から外れざるを得ない状況に陥ったのだった。ある朝、2歳の娘が「パパ、どうしてお仕事に行くの?」と聞いてきた。事前にプログラムされた僕の脳は、すぐさま「どうして?」完答モードに入り、僕は長い会話を覚悟して、口を開いて… それから閉じた。何と言ったらいいかわからなかったのだ。僕は言葉を失った。

「ご飯が食べられるように、お金を稼ぐためだよ」とは言いたくなかった。それも (部分的に) 真実ではあるが、働くのが物質的な理由のためだけだと娘に教えたくなかったのだ。「世界をより良いものにするためだよ」とも言えなかった。なぜなら、そう言えばバカバカしく聞こえただろうし、それもまた (いくら僕がそう願ったとしても) 完全に真実というわけではないからだ。

そういうわけで、僕はこのごくシンプルなはずの質問の答えに詰まってしまった。僕はどうして仕事に行くのだろうか? 説明するのがどうしてこんなに難しいんだろう?

そもそも僕は答えを知っているのだろうか? 問題は、どれかのシナリオをたどれば、すぐに随分と込み入った話になることだった。娘に納得してもらえたかもしれない答えのひとつを紹介しよう。

「エメリー、パパが仕事に行くのは社会にそう期待されているからだよ。そうすれば、食べ物や住むところが手に入るし、学校や道路みたいに毎日使うもののお金も払うお手伝いもできるからだよ。でもね、パパはクリエイティブでありたいし、頭を賢く使いたいから、お仕事をするんだ。他の人たちの生活がいくらか良くなったり、楽になったりするようにお仕事ができたらいいなと思っているよ。」

「どうしたの?」 「あぁ、ママがお仕事をしていないのは、働けないからとか、働きたくないからではなくて、君たちがまだ小さいうちに、できるだけ一緒にいたいと思っているからだよ。皆がそうできるわけではないから、僕たち家族はとてもラッキーなんだ。それから、ママがお仕事に戻ることにしたとしても、それは君たちを愛していないからではなくて、パパがさっき言ったようなことをやりたいからだからね。」

「ん? ほら、働きたくないから働かない人たちもいるし、お仕事が見つからないから働かない人たちもいる。これはその人たちやその人たちの家族にとって、とても辛いことかもしれないんだ。やりたくない仕事だけれど、選択の余地がないから、その仕事をするしかない人たちもいるよ。」

このシナリオを頭のなかで思い描いて、どんどん込み入った論理の深みにはまりながら、僕は何と言ったらいいかわからなかった理由に気づいた。自分が今の立ち位置にいる理由や、今の場所に住んでいる理由が、どんどんわかってきたからだった。誰もが、自分は素晴らしいから成功したのだと思いたいものだけれど、実際にはどこの出身で、どのように育ち、子供時代にどんな機会に恵まれてきたかが、大いに関係している。

仕事を「好きなことを仕事にする」とか「労働とは愛情を可視化したもの」などという短い言葉に薄めてしまうと、この論題の複雑さにひどい害を与えるばかりか、それに — そう、あのことを話そうと思う — 特権が大きく絡んでいることを無視することになってしまう。お分かりの通り、「好きなことを仕事にする」のは、結果にかかわらず情熱に従うことのできる経済的・社会的立場になければ、不可能なことだ。「労働とは愛情を可視化したもの」というのは、好きでもない仕事を3つも抱えて、一日を乗り切るのにも苦労しているような状況では、口で言うほど簡単ではない。

娘に言えるような、仕事についての質問への答えはまだ持ち合わせていない。けれど、僕たちが仕事をする理由 ”そしてどんな仕事をしているか” は、僕たちの選択と努力の結果であると同様に、特権と歴史による結果でもあるということはわかる。

娘に、僕から質問がある。仕事に関する話に入る前に、一緒に考えるべきであろう質問だ。今晩家に帰ったら、娘に「どうして?」と聞いてみたい。「どうして僕たちはここに住めるんだろう?」、「どうして娘は学校に行けるんだろう?」、 「他の人たちが同じ機会を手にできないのはどうしてだろう? それは公平なことなのだろうか?」 、 「僕たちは自分の手にしている特権をもっと意識することができるだろうか?」 、 「どうしたら周囲の不平等を明らかにして、もっと役に立てるような方法でコミュニティに関われるだろう?」

僕が「どうして?」を娘に向けるのを、娘はたぶん好まないだろう。でも、僕は重要な事だと思うのだ。僕たちは、自分たちが幸せで豊かになれる方法よりも、僕たちのような特権や歴史を持たない人々を手助けられる方法を、もう少ししっかりと考えるべきだと思う。この会話から、僕も娘もそのことを学べるのだとすれば、これは子育てだけでなく、僕の人生そのものの成功でもあると思うのだ。