デザインを良く知るという批評家やデザイナーが ウェブデザイン を評価し、賞を与え、記事を書いている今の時代、本当にウェブデザインは理解されているのだろうか?ウェブデザインとグラフィックデザインの違いは?より良いサイトを作り、より良いクライアントを得るには、まず自分たちがきちんとウェブデザインを理解しよう。

# 249

ウェブデザイン を理解する

道具をよく理解した時、私達はより良いデザインを作ることができる。文化的に熟した今の時代ですら、沢山の人が ウェブデザイン を理解していない。それらの人々は最も著名なビジネスや文化的リーダーたちの中にも存在し、何人かはとても甚大なデザインの理解をもつ人々である。−−−ただし、ウェブに関するデザイン理解を除いて。

ウェブデザイン を理解していないにもかかわらず、ウェブサイトを作ったりウェブデザイナーやディベロッパーたちを監督する仕事を持つ人もいる。他にも、ウェブデザインを理解していないのに私達の代表としてサイトを評することを職とする専門家もいる。理解に一番乏しいものが、一番大きな不平をとなえる。彼らが請求金額を支配して、ドアをバタンと閉めて、お金を間違った人やものに投げ与える人々なのだ。

もしより良いサイト、より良い仕事、そしてより見聞の広いクライアントが欲しいなら、自分たちを教育することから始めなくてはならない。

建築より不動産を好んでいる

ウェブ自身を理解していないと、ウェブデザインを理解するのは難しい。そして、ウェブを理解することも、報酬をもらってウェブを説明する者自身がウェブをきちんと理解してなかったり、商業的理由から自分の知ってることを抑えて、素晴らしいものよりバーナム(アメリカの興行師)スタイルを優先したりしていると難しいものだ。

ニュースメディアもしばしば間違いをおこす。金を追うインターネットジャーナリズムが多すぎる;そしてアートやアイディアをカバーするものが少なすぎる。広告主を失うことを恐れるパブリッシャーに編集者たちはプレッシャーをかけられ、その編集者にコントロールされて、ウェブを理解しているジャーナリストたちですら、多くの時間を取引された内容について書いたり取引相手の言葉を引用するのに費やす。Zuckerberg’s Lawのように、その引用があきらかに私利的でありばかげている時ですら、多くの者はそうする。

Zuckerberg’s Lawが真新しいものというわけではないし、ビジネスがジャーナリストにとっての受け持ちエリアでないというわけではない。しかし他の事柄を全く無視してビジネスのみに集中するのは、建築を全く無視して不動産情報のみをレポートすることとと同じである。

そして人はニュースの語り手の一方的さに飽きてきている。1994年、ウェブは異様でワイルドだった。99年、それは業界実力者であった。01年、降格。02年、新参者たちがブログを発見。04年、汗をかいたゲストブロガーたちがCNNで、市民ジャーナリストたちがどうやってニュースや民主主義を作り直し、誰がその年の大統領選挙で勝つか決めるかを説明していた。結果どうなったか覚えていないけれど。

ばかげたその予想がこっけいに消えさった時も、誰も報道室から辞職せず、彼らはただ新しい文言を投げかけただけだ。まるでマーケターがうまくいかなかったスローガンを差し替えるように。素晴らしいのは、何十年ものニュースの日常品化のあとにも、何人もの優れたレポーターがいまだ存在し、一生懸命彼らが正確な情報を社会へ向けて発信しようとしていることだ。グロテスクで異常ななものの唸り声の下から、時にそれが聞こえてくるみたいに。

続いていく利己心の循環

ニュースメディアのみが間違ったことをしてるわけではない。プロの協会ですら日々間違ったことをしていて、その間違いを毎年祝している状態だ。年ごとに、広告やデザイン雑誌やプロフェッショナル団体が「ニューメディアデザイン」のためのコンテストを行い、前年の優勝者たちが審査をしている。この彼らが言う「ニューメディアデザイン」とは彼らにとってなんの意味も示さないが、私やあなた達には全てを物語っている。

例外もあるが、大抵の場合優秀作品の作者たちは、ウェブは広告とマーケティングキャンペーンの手段で、ユーザーが受動的にFlashとビデオコンテンツを体験する場だ、としか考えていない。そして能動的なユーザーにとってはゲームだ。が、あなたや私が「能動的なウェブの使用」とみなすものは「このページを見る」ボタンをクリックすることに限られている。

優勝サイトはスクリーンショットとしてピカピカなデザイン年報にのるととても美しく見える。優勝者たちが審査員となった時、彼らは自身の作品と同系統のものに賞を与える。なのでテレビのように振る舞い、印刷物の中で良く見えるサイトが作られ続け、代々のクライアントとアートディレクターたちは、それがウェブデザインの最高作と思うのだ。

デザイン批評家も間違っている

プリントに関して賢明な人でもウェブに関して劣ることがあり得る。彼らの批評的才能、それは”カーニング戦争”の間に研ぎ澄まされたが、我々の領域の防塞では粉々に粉砕された。

比較的洗練されていない私達のための嘆きといったら、私達ウェブデザイナーがひどいフォントしか持てないじゃないか、ということくらいだ。彼らは、私達がビジュアルの一個一個の原子に絶対的なコントロールを持てない道具を使うことを不思議だと叫ぶ。彼らが暗に疑っているのは、我々が本物のデザイナーなのかどうか、ということで、彼らはそうじゃないのではと思っている。しかしこれらは若輩者でデザイン学生で、未来の批評家である。彼らの意見はまず第一に彼らの教授にとって重要かどうかから来ていて、彼らが良い意見を持って欲しいと祈るのだ。

より洗練された批評家は、ウェブはプリントではなく、制限は全てのデザイン専門分野の一部であることを理解している。けれどこのインテリたちも時々誤った比較に屈服してしまう。(私もやったことはあるが、それはだいぶ前でただのギャグとしてのものだ。)ウェブデザインのマスターピースがある場所で、かれら批評家が騒ぐ。Google Mapが我々の時代の代表物かもしれないことは、モナリザがレオナルドのそれであったように−−−そしてある種とても賢明で−−−ひとつの答えとして私達を満足させるかもしれないが、しかし例えばそう、Milton Glaserによるボブ・ディランのポスターなんてものとの類似点を探すデザイン批評家たちのことは、満足はさせないかもしれないけれど。

タイポグラフィ、建築、そしてウェブデザイン

問題なのは、ウェブデザインは、グラフィックデザインやイラストレーションの要素を使用してはいるが、それらに位置してはいないことだ。もしウェブを他のメディアと比べないといけなかったとしたら、タイポグラフィーのほうが適しているだろう。ウェブデザインにとって、タイプフェイスと同じように、それは誰かの表現のためのひとつの環境である。読み続けてくれれば、どのサイトデザインがHelveticaみたいなものか教えます。

建築(鉄とかガラスとか石なんかを使うあれ)も適切な、少なくともポスターデザインなんかよりは適切な比較である。建築家は人々の動的な動作を楽にする面やグリッドを作り出す。デザインしたとき、建築家はコントロールを放棄する。時がたつにつれて、その建築物をつかう人々が、その建築家のデザインの意図を引き出し追加していくのだ。

もちろん、全ての比較は完璧でない。テレビ界の「ロンドン・コーリング」とはなにか?車デザインでのジェーン・オースティンとは誰か?「蝶々夫人」はカーチェイスシーンがないことで美しさが減ったということはないし、ピーナッツバターがダンスできないからって美味しさが減ったわけではない。

ではウェブデザインとはなんなのか?

ウェブデザインはブックデザインではない。ポスターデザインでもない。イラストレーションでもない。それらの専門分野の最高級の業績もウェブデザインが意図するものでない。ウェブサイトがゲームやビデオの配信システムになり得、それらのシステムが素晴らしい見た目になり得、そのサイトがゲームデザインやビデオのストーリーテリングの見本でも、ウェブデザインの見本ではない。ではウェブデザインとはなんなのか?

ウェブデザインと人間の行動を楽にし助長するデジタル環境の産物である。常にアイデンティティを保ちつつも、個々の声やコンテンツを反映またはそれに適応し、時がたつにつれ優雅に変化するものである。

もう一度繰り返します。強調を加えて:

ウェブデザインと人間の行動を楽にし助長するデジタル環境の産物である。常にアイデンティティを保ちつつも、個々の声やコンテンツを反映またはそれに適応し、時がたつにつれ優雅に変化するものである。

「彼女の歩く姿の美しいさま」(※バイロンによる詩題)

素晴らしいウェブデザインは素晴らしいタイプフェイスのようなものだ。あるものはたとえばRosewoodのように、パーソナリティーをどんなコンテンツにも押し付けるし、他のものはHelveticaのように、背景に溶け込んで(もしくは溶け込もうとして)魔法のようにそのコンテンツがもたらすトーンを助けたりする。(Helveticaが水のように本当にニュートラルかどうかはまた今度でも議論しよう)

どのウェブデザインが良い例だろう?ひとつとして、Douglas Bowmanのブロガー用の白の “Minima” レイアウトがそれで、文字通り数百万ライターたちに使われているのに、各々に対して独自にデザインされているように思える。素晴らしいデザインだ。

素晴らしいウェブデザインとは素晴らしい建物のようだ。全てのオフィスビルディングは、特色がありつつも、ロビーやトイレや階段がある。ウェブサイトも同様で、共通項を持つ。

素晴らしいサイトは完璧にいち個体であるけれど、他のサイトデザインと似たような機能をかなり持つ。これは素晴らしい雑誌や新聞のレイアウトでも同様で、それらは陳腐な雑誌や新聞レイアウトとは何百もの微妙な細部の点で区別できる。ほんの一握りが素晴らしいマガジンレイアウトを賞賛し、しかしながら何百万もが意識的にも無意識にもそれを評価しているが、誰もそれらがポスターではないと嘆いたりしない。

経験がたりなかったり思慮が不十分なデザイナーが、グリッドやカラムを使うサイトや「角ばってる」サイトが多すぎると不満を述べる。角ばりを避ける努力は1995年くらいからひろまっている。しばしば成功する一方で、かれらはもっとも多くひどく美的にみすぼらしかったり不必要に使えないデザインを作り出している。

経験を積んだウェブデザイナーは、新聞の才能あるアートディレクターのように、沢山のプロジェクトはヘッダーやカラムやフッターを持つだろうことを受け入れている。彼女の仕事はその共通項の出現を愚痴ることではなくて、それらを使って特色さ、ナチュラルさ、ブランドに沿った、わずかに記憶に残る、そして静かにしかし明白に人を引きつけるページを作り出すことだ。

もしこれら全てを達成し、細部に汗すれば、彼女の作品は美しいものになるはずだ。もしすべての人がこの美しさをわからなかったら—もしすべてのひとがウェブデザインを理解できなかったら−−−そのときは嘆こうじゃないか。ウェブデザインのためではなく、その美しさが見えない人のために。